南ドイツのウルム市は人口11.5万人、 町の中心にあるミュンスター広場にそびえる大聖堂の塔の高さは161mで、 教会の塔の高さでは世界一である。 その大聖堂をめぐって最近、 市民が二つに分かれてはげしく議論しあった景観闘争があった。
住民投票で決める町づくり1
ウルムの景観闘争
ミュンスター広場とシティーハウス事の起こり
1 ミュンスター広場の大聖堂と新しい超近代的なシティーハウス〈絵葉書〉 |
ミュンスター広場のシティーハウス設計案はウルム市が主催となり、 国際建築デザイン設計競技で案がつのられた。 そして最優秀に選ばれたのは、 ニューヨークのスター建築家リチャード・マイヤーの提案する、 円と直線でつくられた真っ白な幾何学的な躯体の超モダン建築であった。
これを受け入れる受け入れないで市民の意見がまっ二つに分かれ、 ついに全ドイツが注目した住民投票が行なわれることになった。
当時、 郷土美術史愛好家がある日突然都市景観問題にめざめ、 「世界でもっとも高い塔をもつ誇り高いわが大聖堂が、 中世からとりのこされた建物とせまい路地で全貌がおおわれていることは、 あまりにも残念なことである」という意見を新聞に発表した。
それが要職にあるお偉かたを動かすことになる。 大聖堂への視界を妨げるものとは、 13世紀のはじめに建てられ修道院で、 宗教改革以降は高等学校として使われていた。 それが1876年取り除かれることとなる。 それによって大聖堂の全貌が見られるような大きな広場が都心に出現した。 これがシティーハウス建設予定地になる問題のミュンスター広場である。
しかし広くなったミュンスター広場についてのウルム市行政側の考え方は、 不幸にもこれら美術史愛好家達の考えとは正反対であった。 役所はこの都心のミュンスター広場を、 まとまりのない荒廃地としてとらえ、 広場の整備について、 市とこれらの「一部住民」との間に、 その後100余年におよぶ対立がはじまることになる。
ウルム市役所はミュンスター広場に建物を建てて景観を整備しようととする。 1892年の構想では音楽ホールと公衆トイレとベンチの設置が考えられた。 そして1906年に第1回の建築デザイン設計コンペが「ミュンスター広場の再復興」というテーマで行われるが、 これは徒労に終わっている。 その後も役所から新しい計画が出されると、 この「一部の市民たち」はたちどころに反対し、 建物のない広場を主張してきた。 市役所はその後、 戦災復興などにおわれ、 結局、 平屋根の観光案内所とトイレ、 そして大半は駐車場として、 その後30年間放置されることとなる。
役所の一部では、 この広場に建物を作ろうとすることは難しいから植樹で整備しよう、 といった逃げ案が出されたりもしたが、 これも同意が得られず、 このミュンスター広場の整備だけはどうしても手が付けられない。 時の市長ルードビックはそれでも建築設計コンペを固持し、 1986年度のコンペでは「歴史的建造物の保存地区に、 新しい建築建設の経験のある設計士」を招待する設計競技を提案し、 前回の2人の1等入選者を含めて10名の招待コンペが行われた。
そしてこの第6回目コンペ審査の結果、 地元ドイツの著名な設計士をさしおいて、 最優秀に選ばれたのは、 上述のアメリカの設計士リチャード・マイヤーである。
ミュンスター広場のドラマ
町の美術史愛好家の出現
ウルムのミュンスター広場をめぐる景観ドラマは、 今から120年以前にさかのぼる。
超モダンな提案と住民投票
建築設計コンペ
70年代に入って、 ウルム市はこのミュンスター広場の整備に本腰をいれて取り組むことを決心する。 1977年に建築設計コンペ、 1980年には更にもう1つの建築設計コンペを発表し、 広場の整備と建設案を公募する。 設計競技審査員会はそれぞれに1等賞を選出するが、 いずれの案も市長たちを心底から納得させることは出来なかった。
2 マイヤーのシティーハウス設計図〈絵葉書〉 |
この作品には市長をはじめ市の要職者達もおおいに気にいり、 またミュンスター広場の建設全般の拒否権を一手に握っているウルム大聖堂会長、 そして本来なら反対する立場にある州の文化財保護局長も賛成側についてこの案の推進援助を約束した。
1986年11月、 コンペの結果が模型と図面それに審査の批評を添えて公開された。 これで関係者一同はミュンスター広場をめぐる長い期間の景観闘争もやっと終わると思われた。 事実、 市役所側では、 最悪の場合、 市民の反対を押し切ってもこの案を実現させると発表している。
ウルム市は1等案の決定からわずか4ヶ月たらずで正式な設計依頼をおこない、 設計士マイヤーをよんで市民説明公聴会がおこなわれた。 これが市民の間に大反響をもたらすことになる。 公聴会のすぐ翌日すでに「古いウルム派」が市長に対し、 19,509名の反対者署名リストを提出し、 市民投票で裁決することを勝ち取る。 (州法によれば4週間以内に市内有権者数の10%、 ほぼ11,500、 の署名を集めれば市民投票が成立する)。
反対派の理由は、 「感情的に受け入れられない異物」「ドームの視野がさえぎられる」「既存市街地の景観にそぐわない」「建設費も運営費も市の財政にあまりに負担のかかる」、 一口にいえば、 大聖堂が見えなくなる、 モダンすぎる、 高価すぎる、 である。
3 シティーハウス平面図 |
小さい建物はカフェー(1階)とレストラン(2階)である。 2つの建物は橋状の廊下でむすばれ、 下は広場の通行を可能にしている。
建物にはガラスがふんだんに用いられ、 各部屋のたくみに設置された天井や窓の開口部から大聖堂がいろいろな角度から眺められる。 また内部には全館をつらぬく大きな吹き抜けが、 白一色の壁面とともに、 明るくゆったりとした雰囲気をかもしだしている。
マイヤーは、 まちなかにそびえる大聖堂とだだっぴろいミュンスター広場を、 このシティーハウスでうまくまとめている。 駅からくる商店街によせてシティーハウスが建ち、 左に中世町並みの狭い路地、 右は大聖堂と広いミュンスター広場を分けて、 景観にしまりをつけている。
4 大聖堂前ミュンスター広場のデザインもマイヤーである。 広場の敷石は大聖堂の柱の間隔が模様になっている。 |
シティーハウスの完成 | 1993年11月 |
ミュンスター広場の整備 | 1994年5月 |
建設総工費は施設共 | 30ミリオン マルク(約20億円)
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広場の敷石その他の整備費用 | 3ミリオン マルク(約2億円)
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5 駅につながる商店街から見たシティーハウスと大聖堂 |
最初の年には20万人の訪問客があった。 それぞれの会場は100%以上の利用率があり、 会場利用は、 全276行事の3分の1は文化行事であった。 会館時間は9時から夜11時まで。
その後この建物は市民にどのように受けとめられているか、 が大変興味あるところである。
これについて同市のロラー氏(M. Roller)が、 シティーハウス竣工のほぼ1年後、 ミュンスター広場の整備も終わった時点、 1994年10月、 市民へのアンケート調査を行なっている(注)。
インタビューした人数は42人、 これで市民全体の意見をおしはかることは出来ないが、 まあ、 雰囲気はつかめるであろう。
本題「出来上がった現在どう思いますか」では、 シティーハウスについて、 「無条件に良い」のが42%、 それに「但し書き付きで良い」の14%を加えると56%、 すなはち半数強が「新しいシティーハウスはこの町の風景に適合している」と答えている。
アンケート結果
インタビュー質問1「賛否どちらに投票しましたか」の態度は半々(賛成19、 反対19、 中立4)で、 実際の投票とほぼ一致している。
きれい/周辺にマッチしている 42%
周辺にマッチしている/批判つき 14%
きれい/マッチしてない 14%
醜悪/マッチしてない 19%
意見保留 11%
きれい/良くなった 58%
良くなった/しかしよくない 24%
悪い/以前のほうがいい 9%
意見保留 9%
シティーハウスへの感想
6 シティーハウスと大聖堂〈絵葉書〉 |
〈良い〉
(注/Mirjam Roller:Diskussion und Akzeptanz der Neugestaltung des Ulmer Muensterplatzes, Ulm 1990)